2007年3月24日土曜日

墓参りする

清明節というのは亡くなった先祖の墓参りに行くこと。それは中国人の伝統の習慣だ。日本は亡くなった家族の骨をみんな同じな墓に入れて、中国は骨を別々な墓に入れて、家族なのに、一緒に埋めない。だから、墓がバラバラして、参りのはちょっと大変なことだと思う。

その一方、さまざまな宗教的な形がある。例えば、キリスト教とか、仏教とか、道教とか・・・更に、死んだ人は焼かないで、そのまま埋葬されてもいい。焼いたのは箱ぐらいの小さい墓に入られて、焼かなかったのは大きいな墓になった。もし亡くなった先祖が3人以上、墓参りに行ったら、まるで一日を送られたと思う。

私にとっては、墓参りということは意味がないことだと思ってる。亡くなった人はもう死んじゃったのに、どうして墓に入れるのか?今死んだ人は多分おじいさんとおばあさん、またはおじさんとおばさん、多分上の世代だと思う。でも今の世代が、まだ感情があるから、毎年墓参りのは理解できる。でも次の世代はどうだろうか?感情もないし、会ったこともなかったかもしれない。だから、この世代を終わったら、次の世代が絶対に上の世代の先祖の墓参りに行かない。そして、あの墓はそのまま契約の終わりまで置いてしまう。

人間はちょっと可笑しい、生きてる家族を訪問したくないけど、人が死んだら、毎年墓参りに行く。一方、上の世代の墓参りに行かない後人も多い。そして、次世代は知らない先祖の墓を訪ねない。そうすると、墓とのことは必要だろうか。ただ古代からの伝統習慣だと思う。

亡くなった人の墓を訪ねて敬意を表す。でも敬意ということは心からのことだ、敬意があったら、墓を訪ねなくても敬意をもっているじゃないの。もし私が死んだら、何も要らない、ただ焼くだけて何も残したくない。この世にもう大満足だから、死んだら何も欲しくない。その上、後人を邪魔したくない。

道教の小さい墓、部屋の中に焼いた骨灰箱を一個一個並んで、「道士」たちが死者の冥福を祈る

焼かなかった死者の墓

山の一角の風景